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ニューヨーク公演1日目:変なプログラム?

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ニューヨーク公演1日目:変なプログラム?

ティルソン・トーマス&サンフランシスコ交響楽団の2010年のカーネギーホール公演。1日目は、他のオーケストラ(指揮者)だったらツアーにこういう曲を並べないだろうというプログラム。ホールはお客さんで埋まっていました。

1日目

【プログラム】
Victor Kissine: Post-scriptum
Tchaikovsky: Violin Concerto
Christian Tetzlaff, violin
Ravel: Valses nobles et sentimentales
Liszt: Tasso:lamento e trionfo

キーシン

1曲目は、サンフランシスコ交響楽団がロシアの作曲家キーシンに委嘱した新作。キーシンがアイヴズの「答えのない質問」に触発されて、そのひとつの答えとして書いた作品で、ティルソン・トーマスとオーケストラに捧げられたもの。

カーネギーホールでは、この公演のこの曲しか体験していないお客さんがほとんどだったと思いますが、サンフランシスコでは、昨年秋のKEEPING SCOREのアイヴズ編の放送、今年2月のアイヴズのピアノ・ソナタをオーケストレーションしたコンコード・シンフォニー、そして今回のキーシンのアイヴズから発展した曲と、順に体験するように組まれていました。こういうところがMTTらしさであり、チェックすべきポイントなのだと思います。

曲はフルオーケストラのスケールを生かして、宇宙のように果てしない空間が広がっている中にキラキラ輝いたり、遥かな音が聴こえたり、パーカッションの衝動が起きるという、まさにこのコンビのために書かれた内容。オーケストラは高い精度で表現していました。

客席に座っていて感じたのは、こういう曲を年がら年中聴いているサンフランシスコのお客さんとニューヨークの観客は違うということ。やはり新しい作品を聴く下地というか土壌というのは、時間をかけて意識的に作っていくものなのだと思います。今回はMTTのイントロダクション・トークがなかったので、それがあればまた違っていたかもしれません。この曲の評判が良かったので、いきなり演奏して大丈夫だと判断したのかもしれません。

曲が終わったとき、客席にいたキーシン氏をMTTが呼んで称えていました。

チャイコフスキー

2曲目、クリスチャン・テツラフをソリストに迎え、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。テツラフを生で聴くのは初めてだったので、楽しみにしていました。

曲の冒頭、前の席のお姉さんが携帯電話を床に落とし、もぐりこんでガサゴソやっていたため、私の集中度は高くなかったのですが、ティルソン・トーマスはかなりテツラフに自由な場を与え、ほとんどジェスチャーもないくらいでした。かなりたっぷりとしたテンポでテツラフは弾いていたのですが、ソロになってちょっと行ったところで、いきなり私は全神経を集中するはめに。

テツラフがパッセージの途中で正しい音をはずし(音程ではなくて音)、フレーズの途中で弾くのをやめたではありませんか。その瞬間、彼がMTTの方を向いたので、もう一度最初からやらせてくれと言い出すのかと思って、私は心拍数が急上昇。MTTがそのまま先へ行ったので、テツラフも次のフレーズから弾き続けました。

この1件は、私の聴く態度を変えました。今テツラフはとても引っ張りだこで、1ヵ月の移動距離がものすごいことになっているという新聞記事も最近見かけましたし。

テツラフは全身を使って太い線を描くのですが、それはまるで同時に複数の音を弾いているかのよう。そしてその太い幅のまま動く。

これはヴァイオリン特有の軽さとか、メロディーラインを単線で磨き上げるのとは違うアプローチであり、他にいないタイプだと思います。

ただこのアプローチを貫徹することは難易度が高く、パッセージの途中でミスをすると次の音からリカバリーすることが難しいのではないかと思いました。そして幅がある音のため、音程がはずれると不協和音が鳴っているかのように聴こえる。この日は、指も音程も不安定な箇所がいくつもありました。

テツラフのアプローチと曲の関係を考えると、1・2楽章はそれで追求していけるのだと思います。実際、2楽章の歌い上げは効果的でした。でも3楽章は軽くて常に動いている曲なので、幅広で下に掘り下げる方向性は違和感があるように感じます。MTTのリズム感が生きる箇所もそのまま通過。

ティルソン・トーマスとオーケストラはいつもの調子を維持しつつ、テツラフに最大限合わせていましたが、彼はオーケストラと共に弾くところでも自分だけ拍の間隔を動かす。それを彼の表現であり個性であると受け取るか、オーケストラと合っていないと感じるかで、演奏から受ける印象が変わるのだと思います。

曲を通した感想は、テツラフは自分のアプローチで曲を弾ききることに専ら関心があるように見えたということ。それはやはりムターやヨーヨー・マが、オーケストラと対話して一緒に曲を作り上げる余裕があることに比べると差がある。

まだ先が長い人なので、それはこれからということなのかもしれません。私も彼をもっとたくさん聴いてみないと何とも言えないのでしょう。

ラヴェル

さて、コンサート後半。1曲目は、ラヴェルの優雅で感傷的なワルツ。後半2曲は、MTTは暗譜でした。

チャイコフスキーの演奏が重かったのとは対照的に、どこまでもエレガントに空気がふわっと動く。

ティルソン・トーマスがいろいろ話したり書いているのを見ると、問題意識の一つとして、作品が生まれた時代と現代とでは人間の感覚や受容そのものが変化していて、現代の人々がその違うものを体験することに価値がある、と考えている模様。

というわけで、エレガンスを追求していることと相俟って、この曲を繰り返し取り上げています。演奏は昨年聴いたときよりも、より細部が磨かれており、作品全体を見たときの統合という点でも進歩しているように感じました。

リスト

プログラムの最後はリストのTasso。16世紀のイタリアの詩人タッソの生涯を素材にした作品。今回ティルソン・トーマスがオーケストレーションに手を入れた(昨年サンフランシスコで演奏したときは、楽譜どおりだった)とのことで、駄作感は払拭されていました。

曲調が次に移るときの「間」が絶妙にとられていたため、非常にドラマ性がある展開で、繰り返されるテーマが変化する様も特徴が明確にわかる演奏でした。

たくさん出てくるソロも秀逸で、サンフランシスコ交響楽団の演奏は、高いレベルで安定していました。MTTは、この曲を面白く聴かせることにここまで執念を燃やせる根性ってどうよ?という感じ。生命感があって元気そうでした。

プログラムの意図は何か?

今回のこのプログラム、何でこの組み合わせなのかといろんなところで書かれていました。私も考えてみましたが、よくわからない。

MTTはいつも何か言っているので、彼を聴いている人たちは自動的に「MTTの意図は何か?」考える。もしかしたらそれが狙いで、みんながあれこれ言っているのを見てほくそ笑んでいるのではないかという気もします。

【アンコール】
Delibes: Huntresses
アンコールまで知らない曲。MTT/SFSコンビの良さが出る、生き生きとした感じの曲でした。

コンサート:2010年3月25日カーネギーホール

(2010.3.26)

Tag: ツアー コンサート プログラミング

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